
#01 アルゴリズムという名の壁の中で、私たちは『自由の刑』に処されている
お久しぶりです。yuna1107です。
大学受験があって前回投稿してから1年が経ってしまいました。
長かったようで短かった受験生活が終わって、3月はアプリ開発とアニメをいてました。
最近、「進撃の巨人」を全話鑑賞して、『自由』とは何かについて考えさせられたので、駄文ですが投稿しようと思います。
1.物理的自由と心理的自由
「進撃の巨人」は自由を求める物語でした。壁と巨人という物理的制約による不自由から脱出することを求める、物語前半。民族迫害により自由を制限されたユミルの民が自由を獲得されるための物語後半。
作品内で描かれた自由をまとめると次のような目的に基づくと考えられます。
・身体的自由
3重の壁の外に人類の生存圏を拡大させること。
巨人を駆逐すること。
・精神的自由
巨人に関する真実を知ること。
ユミルの民に対する差別の連鎖から解き放たれること。
「悪魔の末裔」の立場から脱し、「人権」が認められること。
それでは、『自由』とはなんでしょうか?
なぜ、エレンたちは『自由』を求めたのでしょうか?
2.『自由』
A.ジャン=ポール・サルトル(フランス)
"人間は自由の刑に処せられている"
これは、サルトルが自由について述べた一言です。一見、自由は刑罰とは程遠いところにあるように見えます。だからこそ、この言葉は矛盾しているように感じる。
しかし、サルトルの語る自由とは「選択しなければならない」という責任のことでした。AとBのどちらかを選ぶ場合だけではない。しなかった場合も「選択しなかった」という選択肢を選ばされているということです。全ての「選択した/選択しなかった」責任を自己が負うもので、ある意味過酷であり、孤独であるとも言えます。
身体的自由を求め進み続けたエレンがパラディ島の未来を得るために選択したもの、それによる責任や苦悩はある意味で"自由の刑"に課せられているとも言えます。しかし、結果としてエレンは選択せざるを得ない選択を強制され精神的自由を失ったとも言えます。
B.ヴィクトール・フランクル(オーストリア)
"人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない"
彼の著書で述べられた一説です。人間は身体的自由を奪うことはできるが精神的自由だけは失わないことを示しています。
物語ではフリッツ王による記憶改竄があります。これにより、パラディ島住民は外界に対する知識を失い、精神的自由を失ったと表現することもできます。一方で調査兵団のように「真実を知る」ために死を恐れずに進み続ける行動は、精神的自由によるものだとも言えます。
3.『自由』とは
エレンは身体的自由を求める結果、精神的自由を失いました。調査兵団は精神的自由を求めた結果、大半が肉体的な死が与えられました。これは、何らかの自由を得るためには、必ず何かを代償として差し出さなければならないことを示していると言えます。これはエレンの "何も捨てることができない人には、何も変えることはできないだろう" という発言とも一致します。これらを通して『自由』とは次のように定義できます。
・自由とは等価交換である
ある自由を得るためには、必ず何かを手放さなければならない。
・自由を求めることは奴隷になることである
人は理想とする自由に縛られ、その実現のために行動を強いられるからである。
エレンは身体的自由(壁の外)を求めた結果、自らの心を義務と罪悪感で塗りつぶし、精神的自由を失いました。一方で、エルヴィンたち調査兵団は、絶望的な状況下で「心臓を捧げる(意志を貫く)」という精神的自由を選び取り、その代償として身体的な死を受け入れました。
4.現代を生きる私たちへ
私達は日常生活の中で様々な自由を享受しています。身体的自由、表現の自由、精神の自由など数え出したらキリがありません。これらの行使には代償が伴います。
SNSで誰もが発信できるという「表現の自由」は発言に対する永続的な責任を伴います。デジタルタトゥーとして残る、将来の可能性に対する影響などがあります。
なんでも選べる「選択の自由」は "選び続けなければならない" という心理的負荷が代償としてあるでしょう。例えば、大学受験などではどの大学を受けるのも自由です。しかし、この選択が正しいのかという不安や選択した大学に入学するために一定程度の勉強が必要などの負荷があります。
私たちの便利な生活はインターネットなしに成り立ちません。しかし、この生活は何を代償にしているのでしょうか?
それは"プライバシー"だと私は考えます。cookieやメールアドレス、ネット上の行動データなど様々なものをGoogleなどの企業に渡すことによって自分好みの情報に囲まれた便利な生活は保証されます。しかし、これは未知の情報や価値観から遮断された「壁の中」で生活していると言い換えることもできます。そして、膨大な個人データを取得する巨大IT企業は「始祖の巨人」でしょう。与えるデータを制御することによって私たちの自由意志を誘導し、選択を強制させることが不可能ではありません。
近年、インターネット上の"プライバシー"が話題になっています。しかし、私たちがインターネット上における真の自由を得るためには巨大IT企業に囲まれた便利な生活を放棄しなければなりません。
・自分の居場所を誰にも教えない代わりに、地図アプリの恩恵を捨てる。
・行動ログを渡さない代わりに、自分にぴったりのレコメンドを捨てる。
これはエレンが自由のために日常を放棄したのと同じように、痛みを伴う選択です。
5.まとめに
現代における「自由」とは、単に何でもできることではないでしょう。
自分が「何を代償にして、どの程度の自由を享受しているか」を自覚することではないだろうかと考えます。
私たちが生涯をかけて学び続ける意義は『自由を求める』ことではないかと思う。不自由を自覚するために学ぶ。自由を得る方法を見つけるために学ぶ。大学とはそのための場だと私は信じている。



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