
#02 「生きるという致命傷、生きたあなたの残照。」
「みいちゃんと山田さん」が完結した。読んで感じたこと、考えたことをこの場に書き留めておこうと思う。
なぜ、生きるのか
作品全体を通して突きつけられたのは、「生きる」とは一体どういうことなのか、という問いだった。
自分を守るために東京へ行くこと、嘘を重ねて崩れそうな自己を繋ぎ止めること。それらはすべて、自身を守り、自分の人生を生き抜くための切実な選択だったはずだ。
しかし、何かを選択することは、同時に何かを手放すことでもある。東京へ逃れることで理不尽な悪意からは身を守れても、祖母という唯一のセーフティネットは失われてしまう。どの道を選ぶべきだったのかなど、結局は結果論に過ぎず、誰にも正しい答えなどわからない。
人はなぜ生きるのか。なぜ傷つきながらも幸せを求めて選択を重ね続けるのか。その答えはきっと、一人ひとり異なるのだと思う。
致命傷と残照
「生きるという致命傷、生きたあなたの残照。」
最終巻の広告に刻まれたこの言葉が、頭から離れない。
「致命傷」とは、一体何を指しているのだろうか。取り返しのつかない大きな痛手、あるいは過去の過ちなのだろうか。そう考えると、作中で「みいちゃん」として生きた二人の選択は、果たして致命傷と呼ぶべき誤りだったのだろうか。
私には、彼女たちの選択が間違っていたとは思えない。歪んだ環境から身を守るため、自分自身を肯定して生きるために必死に重ねた選択の結末として、彼女たちは亡くなってしまった。
人は誰しも、いずれ呼吸を止めて、世界から消えていく。それは生命として生まれた瞬間に背負わされる抗えない制約だ。その時を迎えるまでに、どれほどの選択を重ねられるかは人それぞれであり、どの選択が正解だったかを知る術もない。
そう考えると、「致命傷」とは特定の過ちではなく、「生を受けたこと」そのものを指しているのではないか。
生きるという途方もない制約を引き受け、選択し続けてしまうこと。その営み自体が、抗えない致命傷なのだ。そして、激しい痛みを伴いながら重ねられた選択の傷痕こそが「残照」であり、私たちが確かにここに存在したという記録なのだろう。
改めて生きることとは
生きるとは、一体何なのか。
それはきっと、正解のない選択を積み重ね、自らに「致命傷」を刻み続けていくプロセスそのものだ。
完璧な選択など存在しない世界で、傷つきながらも選び取ってきた軌跡。その積み重ねの先に立ち尽くす「自分」という存在こそが、生きることの答えなのかもしれない。
だからこそ、私はこの生のある限り後悔しない選択を選ぶ努力をしていきたいと思う。



Discussion
No comments yet